小谷のブログ

私が日本代表になるまで#2 最初の大会へ

2020年12月4日

前回の記事の続きです。

私が日本代表になるまで#1

今日から連載記事『私が日本代表になるまで』というのを書いていこうと思います。 きっかけは「今の小谷さんの考えはブログに載っていますが、走り始めてから24時間走の日本代表になるまでの経緯も知りたいです」 ...

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スポーツ劣等生だった中学・高校時代を経て、「大学でこそはスポーツで活躍したい」と思っていた私は、まだマシであった長距離走ができるジョギングサークルに入りました。

「ジョギングサークルから走り始めて日本代表になるなんて、どんな厳しいサークルだったの?」と言われることがあるのですが、実はそのサークルの練習自体はとてもゆるいものでした。

当時のそのサークルの活動は週に2回。
代々木公園に集まって、1周1.17kmのコースをまずウォーミングアップで1周。
その後、各自のペースで30分を目安に走って練習終了。
練習後は近くのお店で食事、更に時間がある人はカフェに入っておしゃべりしていました。

私も最初は週2回、サークルで30分を走るだけのランナーでした。
それから少しずつサークル以外での練習の頻度と距離を伸ばしていき、最終的には月間600kmくらいを走るようになっていました。

サークルの30分はだいたいタイムトライアルの気持ちで追い込んで走っていました。
私はよく30~40分の全力に近い(頑張ればあと5~10分は持続できるくらい)ランニングをお客様にすすめています。
それはこの大学時代のサークルの30分走でドンドン実力がついていったという経験も背景にあります。

また、1000m×6本(レストジョギング2分)という練習もときどきサークルでやっていました。
これもしっかり心肺機能に負荷がかけられて、時間的にちょうど良いくらいでした。

この30分という時間は初心者から本気のランナーまで幅広く集まるチームにとっては便利だと思います。
頑張りたい人は上記のようなスピード練習ができますし、初心者のジョギング・ウォーキングにも長すぎない時間です。


さて、私が初心者同然から走り始めて、ウルトラランナーになっていく過程では何度も強い精神的なエネルギーを与えてくれる出来事がありました。

おそらく最初のそのきっかけは初出場した大会。
2007年(大学1年時)『いたばしリバーサイドハーフマラソン』です。

ここで2人の登場人物を紹介しましょう。
当時の呼び方にちなんで一人はGO、もう一人はY江と書くことにします。

GOは私と同じ学年で広島出身。
坊主頭と「・・・じゃけぇ」という広島弁が特徴的。
高校は陸上部で、5000mを15分台の記録を持っていた当時のサークルの期待の新人的な人物でした。
成績も(東大の中でも)優秀で、理系の花形といわれていた理学部物理学科に進みました(今もアカデミックな世界に身を置いている)。

Y江も同級生で富山出身。
高校時代はサッカー部キャプテンだったスポーツ万能タイプ。
本人いわく、「だいたいのことは人並みにできる」という器用な人。
常識人でうまく周りと調和できる大人な性格だったように思います。
ランニングに対してはストイックというよりみんなと楽しく走っている印象でした。

当時サークルに入った1年生はだいたい10月くらいから初めての大会として10kmやハーフに出場するならわしがありました。

私は12月のいたばしリバーサイドのハーフにエントリー。
同級生のGOは11月の成田POPラン、Y江は12月の川口マラソンにエントリーしていました。

当時は今のようにランニングに没頭していたわけではありませんが、同級生の男子がどれくらいのタイムで走るのかに関心はあり、多少ながらもライバル意識を持っていたように思います。
(学校の試験で順位が気になるのと同じくらいの意識?)

まず最初にGOが成田を走って、その記録がサークルでシェアされました。
記録は1時間24分台と、当時のサークルのレベルからいうと「すごい! さすがGOだね!」という記録でした。
後日サークルで友人たちから頑張りを称えられているGOをみて「やっぱり運動ができるとカッコ良いなぁ」と思いました。

当時の私はGOにはとてもかなわないとわかっていて、自分なりの目標として1時間30分をきることを設定しました。

そのころのメニューはだいたい週2回サークルでのスピード練習と自主練のジョギングで合わせて月間200kmくらい走っていたと記憶しています。
30分走り続けるのが長く感じた入学当初と比べたら大きな進歩です。

「自分は自分なんだから、マイペースで目標に挑めば良い」という自分と、そうは言いつつ心の奥で友人と比較してしまう自分。
この"比較癖"は私に強く根付いていて、プラスにもマイナスにも働いてきました(きっと今も)。

最初のきっかけの大会。
ハーフマラソンがスタートしました。

続き

私が日本代表になるまで#3 負けると悔しいこと。そうでないこと。

前回の続きです。 私にとって最初の大会だったのが2007年のいたばしリバーサイドハーフマラソン。 このときに思ったのが 「大会って練習よりずっと速く走れるじゃん!」 ということ。 これは最初の1kmの ...

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