小谷のブログ

私が日本代表になるまで#1

2020年11月17日

今日から連載記事『私が日本代表になるまで』というのを書いていこうと思います。

きっかけは「今の小谷さんの考えはブログに載っていますが、走り始めてから24時間走の日本代表になるまでの経緯も知りたいです」という声をもらったことです。

これはとても良いアイデアだと思いました。
というのも、陸上経験もない普通の人がどういう経緯でウルトラマラソン(それも珍しい200km超級)を走るようになっていくのか、5年くらいのタイムスパンで語った情報というのはあまり無いからです。

私自身も過去を思い出しながら自分の歩んできた道を確認して、価値ある学びを紡ぎ出せればと思っています。

少し長くなるかもしれませんし、思いのほか書くことがなくてすぐ終わるかもしれませんが、興味のある方はお付き合いいただければと思います。

走るきっかけは大学のジョギングサークル

私がランニングを始めたのは2007年4月、大学のジョギングサークルに入ったことがきっかけでした。
それまで陸上経験というものはありませんでした。

なぜジョギングサークルを選んだのか?
それは中学・高校と部活でスポーツ劣等生だったので「大学でこそはスポーツで活躍したい」という思いがあったからでした。

中学サッカー部時代「下手をしたくない」が悪循環に

中学時代はサッカー部に入りました。
入部の動機は「小学生のころに放課後に友達と遊んでいたサッカーが面白かったから(他にサッカーより興味のあるスポーツがなかったから)」とかだったような。

入ってから気づきましたが、私はサッカーが上手い方ではありませんでした。
「頑張って走る」とか「ボールを持った相手を前に進ませないようにディフェンスをする」くらいはなんとかできました。
しかし、ボールをトラップする(パスなどを受けて自分の足元にボールをきちんとおさめること)、ボールを勢いよく飛ばすこと、ボールを受けて冷静に判断すること、などができませんでした。

「失敗してチームメイトに馬鹿にされたり、先生に注意されるのが嫌」という気持ちが強くなってしまい、それが悪循環を生んでいました。
自分が下手をしてボールを相手に奪われるのが嫌で仲間をサポートするようにパスを受けにいく勇気が持てませんでした。
練習も消極的な姿勢になっていき、成長する機会をどんどん失っていきました。

自分メモ
この「下手なところを見せたくない」という性格は何度も可能性や成長を押しとどめてしまう原因になっていました。
(最近も少し英語を勉強して感覚を取り戻してから英語を習おうなんて考えたり...)
「上手くやっているところを見せるのではなく、上手くなるために練習する」という成長マインドセットに変わりたい

高校柔道部時代「ガムシャラ」だけでは足りない

そんな調子で消極的なサッカー部生活を終え、高校で入ったのが柔道部です。
「高校時代は柔道部でした」と言うと100%驚かれます。

動機は中学時代に「自分は運動神経が悪いから球技はダメだ」と思ったこと。
(間違った思い込みでしたが)「柔道は単に力があれば良いから、筋トレして強くなれば自分も活躍できるかも」と甘い考えをしたり。
あとは、入学した東海高校の柔道部が過去に高校総体優勝など伝統ある部で、それがカッコいいと感じたのも理由だった気がします。

そして柔道に挑戦しますがここでも私は弱小部員のまま卒業しました。
柔道の相手を倒すためのコツ(タイミングや力の入れ方)などが全くつかめないまま3年間を終えてしまいました。

今分析すると、ガムシャラに練習で全力を尽くしていただけで
「どうして自分は倒されて、相手を倒すことができないのか」
「どんなトレーニングや食事をすれば体を大きくできるのか」
などに頭を使っていなかったことが大きな原因だったと思います。

自分メモ
この高校時代の経験が「ガムシャラにやるだけでなく、頭も使うことが大事」という私の信念を強くしている。

自分より後に入部してきた中学生(東海は中高一貫)に負けることもあって、それがすごく嫌でした。
自分が柔道をしているところを親に見てほしくなくて「試合には来ないで」と言ったのに、こっそりと親が見に来ていて、それを知って怒ったこともありました笑

とはいえ厳しかった部活をなんとか最後(3年の夏)まで辞めないで続けられたことは当時の自分、頑張ったなと思っています。
柔道部の先生も私が弱いながらも途中離脱せずに続けたことを最後に認めてくれて、それがとても嬉しかったです。

自分メモ
結果が伴わなくても、努力を認めてもらえたら嬉しいし、次にまた頑張る勇気になる。

大学ではスポーツで活躍したい まだマシな長距離走をすることに

中学・高校とスポーツで上手くいかなかった私は「大学でこそはスポーツで少しは良いところをみせたい(感じたい)」と思っていました。

そこで選んだのがジョギングサークルでした。

私は球技、武道、水泳と運動は苦手だと思っていましたが、1つだけマシだと自覚していたのが走ること、特に長距離でした。
小学生のときはマラソン大会が学校であり、男子40~50人くらいのうち、6~8位でした。
小学校6年生のときは1年間自主練をして1位になりました(今思えばすごい意志力の小学生です)。

当時の東大は長距離を走るなら陸上部とジョギングサークルの2つの選択肢がありました。
部活・サークル説明会に行って、雰囲気がおっとりしていて自分に合いそうだなぁと直感したジョギングサークルの方を選択しました。

今思えば、これが人生のターニングポイントでした。
このサークルでの活動を通じて私は多くの人と出会い、マラソン(特にウルトラマラソン)に魅了されて今の仕事にいたるようになります。

続き↓

私が日本代表になるまで#2 最初の大会へ

前回の記事の続きです。 スポーツ劣等生だった中学・高校時代を経て、「大学でこそはスポーツで活躍したい」と思っていた私は、まだマシであった長距離走ができるジョギングサークルに入りました。 「ジョギングサ ...

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