小谷のブログ

痛いと言いながら練習を辞められないのはなぜ?

2018年9月20日

最近ふと疑問に思ったことがあるのです。

昔さくら道という大会の開会式である方がスピーチでこんなことを言っていました。
「K選手(前年の優勝者)がボロボロになりながらも歯を食いしばりながら走っている姿に強く心を打たれました。」

また別のところでランナー仲間の飲み会でこんなことを言っている方がいました。
「Xさん、また痛い痛いって言いながら月間〇〇kmの練習して大会で大失敗したんだって。
なんで懲りないんだろうね。」

KさんとXさんは「痛みを我慢しながら走っている」という点では同じなのに、なぜこんなに捉えられ方が違うのでしょうか?

この問題を考えるにあたって、私に起きた痛みへの考え方の変化を紹介したいと思います。

つい先週ですが私は6時間走の大会に出場するはずだったのですが、それをキャンセルしました。
大会の1週間前に圧倒的に走りたくない(練習したくない)という気分な日が3日続いて練習を休んだのです。
4日目から練習を再開して衰えた体力を少しずつ戻していきました。

大会当日には6時間走り続けることくらいは十分にできる調子に戻っていました(実際30kmジョグの練習をしている)。
それでも、大会の雰囲気に飲まれて無理をしてバランスを崩したら嫌なので欠場の判断をしました。
つまり、今の私はそれくらい根性無し無理をして走ることに慎重なのです。

一方で昔(大学生の頃)の私はその真逆で常にどこかに痛みや違和感を感じながらも月間〇〇kmとかの目標を定めて走っていました。
なぜ痛みがあり、本来は休んだ方が効率的と思いながらも休むことができなかったのでしょうか?
当時の私の心境を分析するとこんな感じだったと思います。

  • 走行距離は目に見えやすい報酬なので、ついそれにつられてしまう
    心理学的に人は確実ですぐ手に入る報酬に弱い。
    逆に不確実な将来の報酬には心を動かされにくい。
    誰が「この仕事をしてくれたら3年後のボーナスがはずむかもよ」なんて言葉に動かされるというのでしょう?
    走行距離は今日走れば確実にすぐにランニングダイアリーに反映されるので動機付けになりやすい。
  • 目先の体力維持を優先してしまう。
    積み上げてきた体力が落ちてしまうのが怖い。
  • 努力を評価してほしかった
    書くのは恥ずかしいですが、実際のところこの気持ちも強かったです。
    頑張ったことを評価されるのは嬉しいですし。
    東大に入ることで私はそれまでの「勉強ができる小谷君」というアイデンティティを失いました。
    でも、その中でも評価をされたいし「自分はこういう人間だ」と言える何かがほしかったのです。

上記のような心境もあって私は「なんとか走れはする」程度の故障や不調を抱えながらも走り続けました。

そんな私が今のようにしっかり休めるようになった変化の理由は何だったのでしょうか?
おそらく次の3つが大きいと思います。

  • アイデンティティを走る以外のことでも確立して精神的安定ができたこと
    端的に言うと色々しているうちに「先月は月間1000km走ったぜ!」なんて言わなくても良い自信がつきました。
  • 研究を重ねて「痛みを抱えた状態での練習がいかに長期的パフォーマンスに悪い影響を与えるか」を理解したこと
    これについてはいつか別の記事で紹介しようと思います。
    例えば無意識レベルでの動作を悪化させて、その修正が困難を極めるとか。
  • 悲壮感を抱えて走っていても仲間が喜ばないことを理解したこと
    学生時代に私は北京オリンピックの動画(NHKが編集した感動的な動画)をみて、「自分も人の心を動かせるようになりたい」と思いました。
    プロのレベルでなくても「自分だからこそ」感動させられる人はいます。家族とか親友とか。
    そして、そういう人たちは自分が慢性的に痛みをこらえてネガティブな気持ちで走っていても喜ばないと気がついたのです。

こういうこともあり、今ではやる気が出ない日が続いたら「これは何かのバランスを崩しているサインでは?」と考えて3連休をするほどです。
10日くらい経ちもう調子は戻ってきました。

過去の自分にアドバイスを伝えるとしたら
「大会で結果を出したいor人の心を動かしたいなら、慢性的な痛みを抱えて悲壮感に満ちて走っても効果的ではない」
ということでしょうか。

もう1つ最近の私への自戒の念をこめて書き留めておかないといけないことがあります。
「大会の結果が全てではない」ということです。

私は大学二年生の時、初めての100kmマラソンに挑戦するため、大会の1ヶ月前に月間1000kmの練習をしました。
トレーニング理論的には非効率ですし、リスクも高く良いメニューとは言い難いです。

しかし、1000km走ったということ自体が素晴らしい達成感でしたし、自信(RUNに限らず)にもつながりました。
あの非効率な1000kmが無駄だったとも言い難いのです。

よくよく考えてみると、例えば24時間走の大会で〇〇kmを目指して努力するのと1ヶ月(30日間)で××kmを目指して努力するのと何が違うのでしょう?
(前者は比較的多く受け入れられて、後者は走行距離信奉といって敬遠されることが多い)

ナイキ創業者のフィル・ナイトは「走ることから得られる価値は自分自身で見いださないといけない」というようなことを著書で言っていました。
結局のところ「自分が何を求めているのか」を知ることが大事ということに落ち着くのでしょうか。
そしてこれは「自分の価値基準で他者を評価しても良くない」ということにつながるのかと。

自戒と書きましたが、実は私も冒頭のXさん(走りすぎて大会で上手くいかない)の話を聞いて
「確かになんでいつも同じようなミスをしているんだろう」
と思ってしまったのですが、これも最近の私の「大会で結果を出すために走っている」という前提で評価をしていたことになります。

今日はちょっとまとまりのない文章になってしまったかもしれません。
一応最後にメッセージ(私の考え)をまとめるとこんな感じです。

  • 自分がランニングに何を求めているのか知ることが大切
  • もし大会での結果や好きな人の心を動かしたくて走っているなら、痛みを抱えて走るデメリットや、走るのを辞められない理由も考えてみると良いのでは
  • 自分の価値基準で他者を評価して陰口をいうのはやめよう(他者には、その人なりの考えや道理があって行動している)

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